Underway on nuclear power

 はてなにやってきたからにはblog大戦略という名の戦術級ゲームに参加することこそ私の喜びとするところだ。早速シロクマさんとこに言及してみよう。
 まず申し上げておくとマズローの説はあんまり信用していない。モデルが単純に過ぎる。分かりいいからって教科書にいつまでも乗せておくのは不適切だと思う。そもそもマズローらが採用する自己実現という概念は目的論的な視点を強調しており、組織心理学として応用するならともかく、人の精神の実際をうまく記述しているとは言えないと考える。
 心理学の専門的知識がない私が言えることは、承認という高次の神経機能を論ずる場合にも、今日であればもっと神経生理学的な知見を取り入れて議論すべきであるということと、個人的な見解としては各個の欲求は関連があるものの並列で、ある程度まで異なる欲求の充足で補填できるんじゃないかということだ。まあこれはテキストのどこかにもっと洗練された形で書かれていると思う。
 本論に入ろう。原文http://d.hatena.ne.jp/thir/20080627/p1における、これまで承認と所属は従来的な社会構造が提供していた、という部分は概ね了解される所だろう。自己実現の機会の一部も提供していた、としてもよいと思う。しかし承認なしに人間は生存できないとする主張は直ちに同意できるものではない。独居人は即死するだろうか。まあ人間、と生きていかない、という語の定義次第だが。で、加藤某等の実例を挙げてから現代の日本社会ではコミュニティが発行する承認を構成員が適切に認識できていない、とする結論を導いているわけだが、さて、ここから何を読み出すのがよかろうか。

 一つには何故承認が必要なのか、ということだ。承認が無ければ人間は死ぬのだろうか。社会的な存在として人間を捉えるならば、生物学的なヒトとして生きていても承認されない人間は死んでいるとする考え方もできる。しかしそれが直ちに悪いことではない。承認されざることによる精神的な不安定性の助長を主要な問題と設定するのがよかろう。
 また、承認とは何か、という問題もある。いかなる応答がなされれば承認は成立するのだろうか。行動主義的な実験によるデータの収集が最も説得的な回答をするだろうが、多分それはヒトという動物の群れにおける行動が今日の社会に適応したものだろう。従って承認の信号は他者の身振りや声や臭いによって伝達されるものであるはずだ。だとすれば現状のハードウェアでネットによる承認の授受を充分に行うことは出来ない。

 あと蛇足だが小飼氏の書くことは全般的に私の好みに合わない。的を射ていないことが多いように感じられる。シロクマ氏は拗けた所があるので好もしげである。楠氏はぶっちゃけていながら論の運びは正統派なのでよい。楠氏の社会に承認を期待されても困る、承認の確認は幼少時の経験等に文脈依存、承認が獲得できるシステムを作ると儲かるかも、という主張はどれも適切である。
 シロクマ氏が言っている既に信仰している宗教と入信した宗教での承認の質の差は自明である。応答の形式が所与のものか、既に自分で形成したモデルに対応している部分が多かったかの違いである。従ってわざわざ入信する奴の方がより宗教にはまることがあり得る。また、所謂新興宗教は勧誘する信者が比較的多いであろうことから、承認のモデルをより現代的に調整しているであろうことが予測される。
 今日の日本は承認のモデルとなった地域社会も、そこで働く地域の序列も、家族の形態も、檀家も、失われた。ただそれは現代的な各種の有用性の代償であって、それを一律に取り戻すべきだとは思わない。企業の雇用形態と引越しの増加が地域社会を、社会的平等の促進が序列を、女性の社会進出とやはり雇用形態による核家族化が従来型の家族を、宗教政策の転換が古典的宗教観を破壊した。承認という一つの欲求の為に社会を改造すべしという主張には私は同意しない。それは多くの今日的利便性を損なうだろう。今時、宗教を持ってくるという発想は合目的的でないと考える。東先生は何を言っているのか。

 私がこれらの論点に応じるならば、死ねばよいということか。死んでも我々はヒトとして社会の地平を歩いていける。死にたくないのならば、承認の物理的実体が何で、どれくらい必要なのか計量するやり方がよいと思う。より安上がりな承認が常にあるかどうかは自分で証明すればいい。また、承認に類似した効用を持つものがあるのではないかということも探索するとそれが見つかる可能性があると指摘できる。熱量を全部ご飯でとる必要はない。

 シロクマ氏に応答すると、少なくとも承認と所属欲求はヒトの群れを形成する本能に一部根ざしたものだと思う。群れを形成した系統の方がかつては生存性が高かったのだろう。本能は後天的な要因によって発現する強度が異なる。であるから、承認欲求への反応の個体差は前述の先天的なものかもしれないし、それを促進しあるいは抑制する環境、恐らくは成長期の神経伝達物質と受容体の増減に影響する様々の要因によるものかもしれない。なぜ今日承認の付与が枯渇するのかといえば現代社会はヒトの本能の大部分を必要としないし、またヒトの動物的側面を自明な前提とした社会設計はなされていないからでもある。精々それは経験的かつ伝統的な指針を採用する程度であり、それも有用性のために崩壊しつつある。
 社会工学的な解として、宗教団体を含む組織の結成は古典的手法だがこれからもあり得る。だが残念なことに、承認の共同体は今日ではしばしばカルトを呼び込む。承認を売って金を取ることは一つのビジネスだが、今日では伝統的宗教よりしばしば高価だ。成人であるということは自分の足を撃つ自由があるということでもあるが、カルトは社会的費用を増大させるので滅ぶべきである。また承認を国家に求めるならば政治的動員を誘引することにもなるだろう。推奨される解は穏当な相互承認の組織の設計とともに能動的に獲得する必要がある承認の縮小にあると考える。こちとら承認儀式ばっかりやってるほど暇じゃねえんだ。穏当な組織のモデルは多分サークルみたいなもんだろう。社会人サークルってろくなのがない気がするが、まあ適当にやってサークルクラッシャーに壊されればよい。サークルで承認が、というのはまた別の問題だが。そして将来には欲求の生理的基盤が解明され、お手軽な方法で承認とか何とかが充足された日に、人類は自己実現ではなくいかなる口実で事物を成し遂げようとするのだろうか。私の興味は主にそこにある。おそらく欲求を全て充当した連中と自らに新たな制約を課した連中と伝統主義者とその他諸々に系統分岐しかけ、完全な分岐を許すかどうかで戦争すら起こるに違いない。その日は遠くない。