啓蟄の軌道

 国威発揚の為その辺を巡幸しますか?
 小澤さんは不適切だったので再挑戦なさるがよろしいでしょう。
 皆様いかがお過ごしでしょうか。メリケンとチャイナとインディアンの月開発競争に日本も名乗り出たり出なかったりするようです。NASAは今の所2019年を目処に月への有人飛行を行うようですね。CNSAの嫦娥工程は有人部分に関してのスケジュールはまだ不明瞭。ISROは地球周回を2015頃に計画しているようなので、月へは2020年代になるでしょう。
 いずれも国内の経済的問題による遅延、計画の縮小等は充分考えられますので今後見逃せない所です。日本はまだ非公式にですが、2030年にどうですか、とかここしばらく言っていましたね。今回の話は多分新設した宇宙開発戦略本部の位置取りといった意味合いもあるのでしょう。JAXAはこのまま存続できるのでしょうか。改編されて宇宙局に権限を取られちゃうのでしょうか。パイロットから二人出したということは、MSやPSだけでなく日本人の操縦手、さらには船長を育成するということなんでしょうか。こいつは面白くなって参りました。しかし来年シャトルの運用が終わったら少なくとも3年間NASAの有人飛行に空白ができますね。ここら辺の時期に民間企業の有人システムが飛ぶのだろうか。

 今大体低軌道までの輸送コストが1tあたり4〜8億円だから…ちょっとペイする荷物はまだあんまりないなあ。コンテナ船の船賃がトン数万円ですから、月に工場が建つにはもう二桁以上コストダウンが…。まあ月基地が維持されれば少しずつ需要が増えていくはず。マイクロ波ロケットとかが開発されれば大分状況は変わってくるでしょう。

規格化されざるもの 

 スーパー転載タイム
 本文はhttp://medt00lz.s59.xrea.com/wp/archives/147への応答です。medtoolzさんの所を先に読んでからご覧頂いたほうがわかりやすいと思います。やっぱり人のコメント欄に阿呆みたいな長文を投稿するのはどうかと思った。



 社会工学ですね。共同体の振る舞いを指向しようとするとき、それには構成員をそこへ意図的に先鋭化させるシステムが存在する必要があります。この時、二つのアプローチがすぐに考え付きます。構成員を直接志向させるか、環境を制御して構成員を無意識的に望ましい方向へ誘導するかするかという。企業は社員に対しては主に前者であり、消費者に対しては主に後者、カルトは両者の混合を用いますね。
 さて、このようなソーシャルエンジニアリングを振るう意図は何でしょうか。それはしばしば構成員の利益以外の目的にも利用されるでしょう。それはともかく、社会を構成する以上、構成員は定型的な入出力を保証するプロトコルを備えていなければならないでしょう。規格化されない構成員を前提とする組織も考えられますが、それには相当に賢い構成員以外の補助システムが必要でしょう。補助システムのレベルではプロトコルが効率のために存在するはずです。
 ヒトという動物の社会をエンジニアリングすることはできます。社員という資源をマネジメントすることはできます。兵士という戦力を運用することはできます。国民という群集を管理することはできます。しかし生の雑多な、規格化されない人間をハンドリング可能にするプロトコルは、ヒトという動物に根ざした以上のものは未だ整備されていないのが現状です。我々は社会に参加するに当たって、しばしば義務教育という最低限の素養しか持ち合わせていません。それは驚くべきことではありません。ねじの規格化より200年。日本における近代国家の成立より100年余、インターネットの普及から15年足らず。動物的に振舞わないヒトを扱う工学は、未来の状況に基礎を置く学問であるはずです。

 少し考えてみましょう。人を規格化できるか? できます。消費行動が収集できるなら、企業にとって知りたいことの大部分は規格化できるでしょう。クレジットと電子マネーがそれを可能にします。遠からずPOSは業態を超えて接続され、携帯にパーソナルナビゲーターと電子マネーが標準で付くようになり、コカコーラ社製品を買い続けるとどんどん安くなっていくようなシームレスなクーポンが付くでしょう。

 人を規格化しないまま強力な組織を構成できるか? 条件付で、それは可能だと思います。既に共有された価値観を持つ層を対象とするなら、それは可能です。問題は、我々はいかなる価値を望んでいるのか自覚的であるとは限らないということです。従って規格化されない構成員を扱う組織は、しばしば意図的な価値観を植えつけてしまいかねません。それはよいことも悪いこともどちらでもないこともあるでしょう。

 では人の振る舞いを規定することはできるか? それは、場合によります。どのような人を対象に、いかなる価値の下に、いかなる技術を用いてよいのか。それらが設計条件を制限するでしょう。ただ、そもそも人を設計通りに振舞わせることが目標なのかは考えておく必要があります。多くの場合組織の入出力が望ましければよいのであって、その過程の詳細はどうでもよいのです。
 もっと言うと社会を設計せねばならない要請とは何か、それを問わねばならないでしょう。共同体は育っていくもので、緻密に設計するものなのか? そのような悠長な態度を許さない喫緊の課題とは何か。その課題が真に社会の設計と構成員の能力の糾合を以ってしか解決できないことなのか。
 目標が明確に策定されており、その組織が構成員に及ぼす誘因ないし強制力が充分準備されていないならば、いかなる設計もおよそ徒労であると言わねばなりません。


 以下、コメントにもかかわらず雑想。
 ヒトは自分が利益と考えているものを認識するので、何が実の利益かはどうでもよい。

 悪はただ負の価値であるというだけです。それは価値によって記述可能です。

 長期的な視野の下での利己的判断の集合を倫理よぶならば、倫理的な判断に基づいた(別の視点にとっての)悪もまた確実に存在する。



付記:ものを買うという振る舞い自体、我々が高度に訓練されている証しだ。盗んだり壊したりしないんだからな。その規格化こそが、市場経済を保障するものだ。ロシアみたいに時たま定型的に応答してくれない社会システムでは、ビジネスも困難。

エネルギーがあれば何でもできる

 物理的に可能ならね。
 さて、工業社会の長期的存続のためにはエネルギーが必要で、そのパワーソースが核融合であるということは既に常識ですが、そのために必要なものはダイソン殻か超伝導コイルか大出力レーザーです。大体2035年ごろに商業炉ができる予定ですので、それまでは燃料電池とか代替燃料でしのいで下さい。必要なら意図的な工業化の遅延を併用するとよいでしょう。まあ2010年から2015年の間のどこかでグリッドパリティ、即ち太陽電池導入の総コストが電力料金を払い続けるコストと同等になる状態を迎えるそうですから、その後の心配をしなくてもいいのかも知れませんが。
 燃料電池は各社が2010年に年間数万台とか十万台以上とかの生産を立ち上げるらしき話がでてきてるので、まあ大丈夫です。これによって東電等の電力小売が困ったことになるでしょうが問題ありません。
 化学工業の方もかつて石炭化学工業があったように、採算が取れるならば別原料へ移行可能ですから心配しないで下さい。
 少し振り返ってみて下さい。1942年。シカゴ・パイル1号炉が臨界に達したときのことを。確かにその後建設されたプルトニウム生産炉は、トリニティ実験や、ファットマンや、たくさんの核弾頭の原料を生み出しました。七万余の人を実際に殺し、今も存在する数億の人間の頭上へ投射されるかも知れない死の可能性になりました。
 いやそんなことが言いたかったんじゃなくて。何かってエネルギー事情はここ半世紀で大きく変わってきたと。石油の時代はたかだかここ60年だと。ならば後50年後は石油の時代でなくなってることも有りうべしと。私はそう思ってます。そしてエネルギー問題の解消によって中東問題の最終的解決が到来すると。そういうこと。

 えー、今見たスケジュールだとITERのファーストプラズマが2018年だそうですので、発電実証炉のDEMOが2030年前後になるでしょうか。はい。コストは今の原発程度だそうです。負荷追従も可能(多分)。5GWとか書いてあるWikiは嘘です。そういう設計案ではなかったと思うます。
 レーザーもほぼ同程度のスケジュールで進行するといいな、的な。15kWの軍用半導体レーザーも既にあるようですので、パルス1MJのシステムを組むこともきっと予算内でできるようになっていくでしょう。
http://www.jspf.or.jp/Journal/PDF_JSPF/jspf2005_09sup/jspf2005_09sup-93.pdf
 ここらへんで読んだ話だと増倍率が200なので、発電炉では1秒間に200MJの爆発を4回起こすようなシステムになるそうです。これはTNT火薬50kgが秒間4回って感じですね。炉壁の耐久性が難しそう。
 さあ、これで核パルス推進ももうSFではなくなっていくんですね。

 ところでジャイロトロンがありますね。あの原子力機構がダイヤモンド窓作って高出力化に成功したことで記憶に新しい、あれ。ITERのプラズマを温めるのにも採用された、1MWくらい出る奴。あれを千本並べると、マイクロ波推進で軌道までトン単位のペイロードが上げられます。ってその道の人が言ってた。マイクロ波の方がレーザーより低コストかもよ、って。既に存在する技術で大体のシステムは構成できるって。まあマイクロ波でちゃんと飛ぶ実用スケールの宇宙機はまだないけど。必要予算の中に占める電源のお値段が大変なことになるらしいけど、数百回の打ち上げを前提とするなら化学ロケットよりペイするはずだって。
 こういうものは装置自体より電源の値段の方が高いらしい。

ヒトの後に

 私の個人的な定義では、ポストヒューマンとはヒトの後に発達する知的存在であり、ヒトを直接の生物学的起源とするかどうかは重視していない。
 知性とは何か、という問いに対して端的に答えれば、それは予測する能力であると考える。言語的、論理的、空間的、運動的、社会的知能とは入力されたデータから規則性を見出し、次の時間に起こりうる可能性の高い事象を出力するシステムによって大まかに説明できるはずだ。必然的に、高い予測精度には充分な記憶容量と、ある程度高精度で広帯域な感覚器が要求されるだろう。また自己が環境に干渉できるのならば、効果器のカオス的になり過ぎないフィードバックの制御も重要だろう。運動などはかなりの部分を生得的な能力によって規定される上限が見えやすいところかとは思うが。
 さて、人類社会がもう数十年存続すると仮定すれば、ポストヒューマンと呼ぶに値するものは複数種出現するだろう。あるいは、定義にもよるが既にポストヒューマンは存在すると言ってよいとも思う。現存するヒト+Webは生得的なヒトよりずっと賢い。この調子で言えば、ヒト+言葉、ヒト+住居、ヒト+神、ヒト+文字、ヒト+算盤、ヒト+大学、ヒト+国家、ヒト+企業、ヒト+車など大量に例示できるが、それはもういいだろう。訓練されたものは、ヒトと同じハードウェアでありながら、天然のそれを遥かに上回る知能を持っている。
 携帯の少し先にあるヒト+ウェアラブルコンピュータはヒト+Webを更に強化したものになるだろう。改造された神経系は、ヒトと異なる精神を宿すだろう。半導体の中の魂も実装によっては夢を見るだろう。悪夢と、もっと奇妙なものをも。
 今何かソビエト+電化とか聞こえてきたような気がしたが、別にそんなことはなかったぜ。

 さて、社会がポストヒューマンを前提としつつある今日では、ヒューマニズムの前提である人間的理性の不在が大きな問題になると考えられる。ヒトの予測は多様な偏向がかかったものであり、人間が理性的存在でないことはよく知られた事実であるが、しかし未だ多くのシステムはこれを自明な前提としていない。それは理性以外に頼むもののない時代には止むを得ない選択だったわけだが、いまや単独のヒトより正確に予測するシステムは多く存在する。であるから、ヒト個人の、増強されない理性を基礎とするような考えは排除されるべきであることは功利的観点からは常識であろう。しかし功利主義もまた、ヒトの先天的な精神の満足を所与の前提としていることによる限界がある。

 ポストヒューマンはヒトの生得的な価値を必ずしも認めない。そのような社会でいかなる価値の重み付けをしていくかは、大変な難題となるだろうし、事実上それは一種の社会が担えるものではないと考える。従って複数の異なる価値を認める社会の並立は必然であり、価値基準の大統合は平和裏には起こらないであろう。個々の社会のアーキテクチュアによる環境管理はシームレスに接続されない。ここから単純に導かれることは、将来起こるであろう恐るべき社会同士の対立である。社会は一個の生物種の如く、絶滅し、増殖し、変容する。

 では、そのような予測において私が何を主張したいかというと、どの粒度の社会が望ましいか考えをめぐらしてはいかがかということだ。それは利用できる技術に左右されよう。軍事力も含めて。

 とは言え先進国でさえ貧困が無視できない今日において、素敵な社会契約の締結はもう少し未来のことでしかないだろうが。カーツワイル先生も言っているが、まずは個々人が利用しうる技術を拡大する道を舗装することだ。望ましい社会は利用可能な技術によって自然と規定されるのだから。

 しかし…未来を今日の延長によって考えるならば、恐らく先進国が多様な社会形態を許すようになっても未だ独裁国家や不自由な社会が存在する時期があるのではあるまいか? その時に、不自由な社会は非常な不安定性に曝されるのではないか? そのような緊張は、高度な技術が運用可能な未来において、少なくとも地球全体に危機を惹き起こすのでは?
 まあこれらは杞憂で、もっと目先の優先度が高い脅威に目を向けた方が有益かな。今起こってる大不況とか。イランの核開発にイスラエルが何を落っことすのかとか。北の首領が代がわりするとか。地下の商売も色んなことが変わって大変ですとか。大統領選が終わったけどそろそろ暗殺の季節ですねとか。次の戦争のためにとか。むしろステーツは一年中戦争ですよとか。イラクから空自も帰ってきますよとか。LHCが一年休むのコマに止まっちゃったとか。もしくは破壊工作成功とか。H-Xロケットまだー? とか。Falcon9がケープカナベラルへの船に積まれつつありますとか。
 www.youtube.com/watch?v=qcHEe5t7Kuc
 これH-IIの組み立て時の動画ですけど、ロケットの組み立てって素敵ですね。30日前後かかっていたところを減らしていってるそうで。H-Xではロケットが射場まで動くんじゃなくて、組み立て棟の方が退避していきますとかいう記事を読んだような気がしたけど…ソースどこだったかな。

帝国は何処に

 essa先生のお話である。書いてあることはわかる。書かんとしたところも大体わかる。賛成はしない。
 国民国家が滅びたら何が法を成立させるのか。その答えが得られないうちは我々は自らの利益のために国家を保守せねばならないはずだ。従って国民国家にともなう諸般のこまごました不便は、多くの国民にとってこれを耐える合理性があるはずだ。その一つがreponさんなどが書いている国語教育である。まあ、将来においては技術的な環境の変化からその有用性が薄れていくことは充分想定できるが。
 原理的には国民国家なしに法の実効性を確立することはできる。詳細な個々人ごとの社会契約によっても可能なはずだし、あるいは帝国によって保障されるとしてもよい。だが、日本が加わるべき帝国がどこにあるのか。構想されてからこのかた仮構のものでしかなかった社会契約を実装するシステムがどこにあるのか。アメリカは帝国と呼ばれようと、実質的な内政干渉をもりもりしていようと、国外で合衆国法を通用させるような統合を望んではいない。連邦政府の手間が増えるだけだし。別の国であることにアメリカとしての利益があるのだから。世界政府は未だ存在しない。武力と警察力をもそなえた自由な加入と脱退を許す社会契約のネットワークなどというものは、空想の域を出ない。今のところは。であるならば、世界の国民国家が滅び得る環境が整うまでは日本というnation-stateを滅ぼしてはならないのだ。日本国から利益と不利益を受ける構成員としては。

太陽の帝国はとても何なのか?

 読まずに書くとあれだから、そこから派生したことについて書こう。
 私の言語観は先の大日本帝国三.〇のエントリを見ていただくとある部分については不必要に理解が深まると思うが、一言でいえば

日本語圏の文化の増大のために日本語人口を増やせば?

ということだ。従って国語の授業数を増やすとかそういうことには賛成しない。そもそも現在の国語教育は、個人的には読み書き以上の部分では間違っていると思う。過度に作者の意図を読み込ませようとしており、それはいわゆる空気を読むという別の意味で日本では重要な訓練にはなるが、文学的素養を育てるよい手法ではないだろうし、総合的な教育的見地からして有益とも思えない。そもそも論になるが、日本文学は日本文化の一部であって、代表ではない。日本という地理がもたらす生活環境と、そこにあった歴史と、そこに生きるヒトと、そのヒトが使う言語と、後なんやらが文化であるということは特に繰り返さなくてもよかったとは思うが折角だから書いておく。
 分裂の人も言っているが、経済的観点からすれば金融や経営や法律や理学や工学を教えた方がいい。大体、高精度な機械翻訳が英和でも実現しようかというこのご時勢に、その言明の合理性はどうなんだろうか。
 まあいい。私がただいま思ったことは、
 ・日本にヒトが住んでいる限り100年程度のスケールでは日本語は滅びない
 ・日本語が滅びても日本での生活がある限り日本文化は滅びない
 ・日本語が滅びても日本文学は滅びない
 ・日本文学が滅びても日本での文芸は滅びない
 ・日本文学が滅びたら何か困るんですか?
 ということで、何が申し上げたいかというと、

超弦の振動に至るあらゆる通信が文学であり得る

という受容者の精神の準備が重要なのであって、後はどうでもいいということです。

 でも今の日本文学が吹き溜まりなのは事実だろう。だってこんなにも通信が溢れているのに、それを用いようとしねえんだもん。よく知らないけど文学って差異から生まれるんだろ? 異常なるものが山盛り存在するこの時代をなぜ祝福しないの? プログラムによる文学とか、生物による文学とか、環境による文学とかを何で投射しないの? 馬鹿なの? 死ぬの? 何か文字で書いてればいいと思ってるの? がたがた言う前にもっとすべき事があるでしょ?
 まあ、ファ文的に考えると、それらは設計の内で、

私は全ての文による表現を歓迎するものである!!

とか著者が一人哂っているのかもしれないし、また単に宣伝あざーすとか思っているだけかもしれない。本日は引用してないのに無駄に引用多めでお送りしました。付言すると私は文化プールの拡大のために個々人の生命をそれなりに削ることを是とする方であり、経済力を背景とした合意の上での文化帝国主義上等という考えです。

我は土くれ

 カーツワイル先生が長寿のために毎日十杯の緑茶を嗜んでいることは既に常識ですが、それはそうとしてこちらを御覧下さい。

http://robot.watch.impress.co.jp/cda/news/2008/10/30/1410.html

 いわゆる技術的特異点は20世紀半ば頃から想像されていましたが、その定義は明確ではありません。ので、私は個人的に技術史的観点から、これを技術開発の主役が人類から人類以外の存在へ世代交代することであると捉えています。さて、それは即ち強いAI、あるいは汎用的な機械学習の安価な実現を意味するはずです。
 IBMの人が言うように、2018年頃に出てくるであろうエクサフロップスクラスのスパコンによってヒト脳のシミュレートは可能になるとする意見を私も支持します。昆虫とネズミとヒトの間に細胞数のスケール以外の溝があるとは思わないので。ただ、それが人並みの学習能力を発揮するかというとそれは早計で、モデルをヒトに近づけていくにはヒト脳をミクロトームで全部切片化して走査していくような地道な作業が必要になるでしょう。確かもうどこかでやり始めていたはずですが。
 それでまあ、2020年に成人一人分相当の学習能力がHPCによって得られたとして、興味深い点は、無休の学習能力が達成する成果とはどのようなものかということです。普通人が日常的に学習し推論する能力は、実際には高度であるにも関わらずそれほど経済的価値を持ちませんが、恐らくそれと同等の能力を経済的に高価値な目標に振り向けたとき、驚くべき状況を生み出すかもしれません。まあヒトの場合無休止で考えることは実質的に無理ですから、一人分といっても正確ではないのでしょうが。
 そしてまた、ヒト一人分を超えた学習能力とは何か、という点も同時に俎上にのってきます。まさにレムの、Golem XIVの世界です。
 2020年ごろの半導体は、現在45nmプロセスの所を10年に32nm、12年に22nm、14年か15年に16nm、16年〜18年に恐らく11nmとして、まあそれくらいまでシリコンで達成できるんじゃないでしょうか。それを10万プロセッサ超盛ればエクサフロップスは達成可能なんだと思います。11nm近辺でこけてもグラフェンがあります。グラフェンなら1nmを割って分子トランジスタまでいけるでしょう。六員環一つが一素子の世界へ。
 室温でTHzから10THzのオーダーで動作するかもしれないグラフェントランジスタですが、ランダウアーの原理から恐らく限界があり、1層の、つまり単原子のグラフェンチップが100平方mmとして、その能力は100Pflops内外じゃねえの? 知らないけど。まあ単電子デバイスになれば熱揺らぎ近くで動作するんだからそこが限界なのは当然と言えば当然でしょうか。
 ヒトの神経系は、微視的には記憶とその変更、つまり学習によって動作しているはずですが、その機能は運動制御、長期記憶、中継整理、感覚、空間認識、予測、意思決定、自己意識、情動、内分泌、自律神経などの多様な用途を持ち、それらがどの程度局在しまた分離できるかは未だ謎ですが、ともかく学習能力はヒト脳全体のシミュレートと比較した要求される演算能力において、一桁以上簡約化できると思いますので、その程度の能力が家庭用に普及する日も2025年から2030年ごろに来るんじゃないかというのが私の予想です。人工知能の支援による半導体開発の非常に急速な進展がないとすれば、ヒトと機械の知的生産能力の逆転はこの数年から10年程度の間で緩やかに起こるでしょう。いや、緩やかかどうかは感覚しだいですが。何にしろ半導体産業は既に人類の巨大な知的能力を投入することで支えられているわけで、それを生まれたばかりの一人分人工知能が覆せるかどうかは微妙です。覆せてもハードウェアは人間が製造し増設するので、少なくともその程度の時間的余裕があります。むしろ、これら強いAIが惹き起こす問題は、技術開発力の決定的優位による政治的な破局が起こるか否かという所に関心が集まりそうです。恐らく最初にそれを手にするのは米国ですが、実は2016年とかの早期に達成しているのに軍事機密にして競争に好スタートを切られたりすると厳しいですね。

 このように考えると2015年頃からそれなりの期間は再びHPC開発競争が起こるはずなので、NEC、日立、富士通の御三家がそれまでに潰れないよう祈っております。従って京速計算機もユーザーにとっては有害な税金の浪費ですが、公共事業の一環としてはそれなりに見るべきものもないわけではないのだということで今宵はここまでにいたしたく存じます。